最期の時
「もし一人暮らしの俺が寝込んだら傍で看病できない罪悪感にさいなまされている。」
とラインに書いていたが、それは罪でもなんでもない。そんな事を感じる必要はないよ。
俺は麻里子への愛に生きようと決めた時、俺は多分一人きりで最期の時を過ごす可能性があることも覚悟したのだと思う。
なぜなら、俺は作りかけのコミュニティを今回一旦閉じたからだ。作ろうとしていたコミュニティは、最期の時を家族がいない人でも、代わりに仲間たちが家族のようにサポートし見届け、死への最期の瞬間まで恐怖がないコミュニティを模索していた。
それは自分のいく末のためでもあった。俺には子供や家族のいない人の寂しさやいく末の不安が少しはわかる。
だから、少なくとも妻が何か動けなくなったり、最期のときに不安があるのなら、サポートしてあげたいと思っている。もしその時に彼女の周りにそういう人がいなければ。
それは彼女を愛しているとか、していないとかではなく、慈悲の心による。それは周囲に身寄りのないお年寄りがいたとしてその人を自分が出来ることをサポートしてあげたいと思う心と同じだ。
それは麻里子がおやじさんのサポートをしているのを見るとどんな人も最後は現実的なサポートが必要になってくることがわかる。オヤジさんはとても幸せだ。それを愛をもって出来るのは今の社会では身内だけだということ。
ほんとは身内でなくとも、愛あるサポートで全ての人に老いて何も出来なくなっていく不安がない世界が来て欲しいと思うのだけれど。
話は戻るが、俺が麻里子への愛に生きたいと思ったとき、もしかしたらこのまま麻里子と一緒に過ごせず、互いに違った環境のまま最期までいくことも考えられる。
その時には麻里子への思いを胸に孤独な死を選ぶかもしれない。
もしそうであったとしてもそれは、自分で決めたこと。
麻里子自身には関係ないし、罪悪感も必要ない。
俺がしたくてすることだから。
今はその時がどうなるかはわからないが
ただ一つ、
この命の最期には麻里子を思っていたい。
麻里子と経験した全ての瞬間の思いとともに。
それがこの人生を本当の自分で生きられるようにしてくれた感謝と
麻里子へ向かう愛の証でもあるから。